研究目的

 インド仏教論理学の大成者ダルマキールティ(600–660)の第二の主著『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ(認識論の確定的見解)』は、近年サンスクリット語原本が発見され、校訂テキストが刊行されて研究者の関心が高まっている。インドで書かれた同書の注釈はダルモーッタラ(8c.)によるもののみだが、11世紀から仏教論理学の受容の始まったチベットでは、カダム派を中心に同テキストの研究が重視され、多くの註釈書が書かれた。

 これらの文献は、15世紀にゲルク派が成立したのちは散逸したと考えられてきた。しかし、2002年にラサのデプン寺で大量の古写本が発見され、その中に『ヴィニシュチャヤ』の注釈が7点含まれていた。これらの写本は草書体で書かれており、また2008年以降順次刊行されている影印版は縮小印刷されているので、文字の判読が困難である。

 本研究は、まずこの読みづらい草書体写本のテキストデータをコンピュータに入力し、さらに本文の中に織り込まれている階層化された詳細な見出し(科段)を抽出・整理し、原典である『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』の対応する箇所を補記した科段対照表を作成する。これらの成果によって、\ul{インド論理学の研究者もチベット論理学の研究者も、『ヴィニシュチャヤ』の注釈箇所を容易に参照することができ、また文字の判読による時間的・労力的な負担を軽減するような基礎資料を提供すること}を目的とする。

 ダルマキールティの第二の主著『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』の新出サンスクリット原典の校訂テキストが、ウィーン大学と中国蔵学研究中心の共同研究成果として刊行された(2007, 2011)。さらにそれらに基づいたKWIC索引もオンラインで公開され(2013)、研究の素地が整ってきた。チベット語訳に残されたダルモーッタラによる注釈の一部がサンスクリット語写本で発見され、本研究課題研究分担者石田尚敬はその一部を校訂・翻訳・研究し、その成果をウィーン大学に博士論文として提出した(2011)。

 チベット人による注釈書については、H. Pascaleが、チベット論理学の創始者とされるチャパ(1109–1169)の大小二つの注釈の科段および、それに対応する原典の箇所の対応表をウィーン大学のサイトで公開した(2009)。またチャパの弟子ツァンナクパ(12c.)の注釈書のテキストおよび科段は、本研究の研究協力者崔境眞および松下賀和(チベット寺院での最高学位を取得後、還俗し日本に帰化)の二人によって作成され、大谷大学真宗総合研究所のWebサイトで公開されている。内容研究としては、崔境眞が第2章の刹那滅論についてチベット人の注釈書を網羅的に比較した博士論文を東京大学に提出した(2015)。これら以外には、チベット人による『ヴィニシュチャヤ』の注釈書の研究はほとんど手を付けられていない状況である。

 インド仏教論理学に対するチベット人注釈書の科段研究については、研究代表者福田は1986年にダルマキールティの第一の主著『プラマーナ・ヴァールティカ(認識論注解)』に対する6人のチベット人による注釈書の科段対照表を刊行した(東洋文庫)。これは\ul{『ヴァールティカ』の科段を整理し原典の偈番号を調査した最初の研究であり、6点の注釈を見開きで対照させた画期的なもの}であった。

 チベット論理学の研究は、2002年に発見されたカダム派の古写本が刊行されて状況が一変した。研究代表者福田および研究分担者石田は、平成26〜28年度に基盤研究(C)「初期チベット論理学成立史解明のための基礎研究」の交付を受け、カダム全集所収の論理学に関する文献24点のうち、主要な14点の入力を行い、他の論理学書2点を加え、KWIC検索サイト(http://tibetan-studies.net/tiblogsearch/)を公開した。カダム派の古写本は、草書体で書かれており、そのままでは内容を研究することは難しい。従来は個人が相当の労力を費やして入力していたため、テキストデータの公開は行われなかった。その中で、上記基盤研究において、主要な論理学書を入力して全文検索およびテキストデータの公開を行った。

 これを踏まえて、本研究においては、さらにある程度学術的な校訂を経たテキストデータを提供し、また原典の注釈箇所を調査して、詳細な科段とともに対照表を刊行することによって、インド・チベット論理学双方の研究者が容易にチベット人の注釈書を参照できる資料を提供することを目指す。

 本研究では、11世紀から14世紀頃までにインド仏教論理学を受容していった時期の『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』の注釈書9点を対象とし、以下の三つの基礎資料を提供する。

  1. テキストのデータをコンピュータに入力して公開する。既入力のテキストについては、校正および整形をし、写本・木版本・刊本のページと行番号を全て入力する。新規入力としては、草書体写本2点と木版本2点のテキストデータを入力する。
  2. 入力したデータの横断的なKWIC検索を提供する。本研究の申請者は初期チベット論理学文献の検索サイトを提供しているが、新規入力テキストも加え、さらにその精度を上げるためにプログラムの改良を行う。
  3. 全ての注釈書の詳細な階層化された見出し(科段)を抽出・整理し、それぞれが注釈している原典の対応箇所を調査する。最後に8点の注釈書の科段対照表を刊行する。

 インド仏教論理学をインド人学僧の指導のもとに翻訳・受容していったチベット人による『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』の注釈書9点のテキストデータを作成し、その詳細な科段を抽出し原典の注釈箇所を注記した研究は、他に類を見ない。この前提となる作業は個人の研究者が取り組むには負担が大きい。本研究の研究代表者は、1986年に後代の論理学注釈書の科段対照表を作成し、また平成26〜28年度の基盤研究(C)「初期チベット論理学成立史解明のための基礎研究」において、研究協力者石田尚敬とともに初期チベット論理学書の全文テキストデータの作成に取り組むなど十分な研究実績を有している。また長年、チベット論理学の研究・入力に協力を仰いできた崔境眞博士およびチベット人研究者松下賀和氏を研究協力者に加えることによって、他では実現できない独創的かつ画期的な研究成果を提供することができる。

 本研究によって提供するテキストデータおよび科段対照表により、インド仏教論理学の研究者もチベット論理学の研究者も原典と対照させながら、豊富なチベット人による注釈書を容易に参照する道が開けるであろう。