研究目的

 本研究課題は、近年発見された、チベット論理学草創期の多数の古写本を解読するための基礎資料を提供することを目標とする。これらの文献に記される古い論理学的議論は極めて難解であり、理解 困難な箇所が少なくない。それらを読解するための有効な方法の一つは、各概念についての用例を収集し、また同じテーマの議論を比較検討することである。本研究課題は、これら新出資料のうち論理 学関係の文献をテキスト入力し、重要な概念の用例のコンコーダンス、および、議論のトピックの比 較対照表を作成することによって、チベット論理学特有の概念が、どのように形成されていったかを解明することを目的とする。

 現在、チベット寺院で伝承されているチベット論理学は、インドの仏教論理学をベースにしながら独自の発展を遂げたものである。その基礎は、10世紀以降のインド仏教後伝期から15世紀初頭ゲルク派が成立するまでの間、カダム派のサンプ僧院を中心に形成されたと考えられる。従来、この時期の資料は失われ、後代の著作における引用を通して知られるのみであった。

 しかし、2002年にラサのデプン寺から多数の古写本が発見され、そのうちカダム派の諸著作が2008年以降『カダム全集』(ペルツェク研究所)として現在までに90巻影印版で刊行された。そこに後伝期最初期のゴク(1059–1109)、チャパ(1109–1169)、ツァンナクパ(12世紀)、チョンデンリクレル(1127–1311)の著作のほか、著者不明の論理学書も含まれており、これまで見ることのできなかったチベット論理学草創期の多数の著作を直接読むことができるようになった。

 しかし、その文章はゲルク派以降の論理学書とは様相の異なる、極めて難解なものであり、刊行されて間のないこれらの文献を十分に読解できるだけの研究の蓄積は未だ存在しない。これらの文献に取り組んでいる研究者として、ウイーン大学のPascal Hugon博士と東京大学大学院で博士号を取得した西沢史仁氏を挙げることができる。西沢氏の博士論文『チベット仏教論理学の形成と展開』(東京大学、2011年)はまさにこの初期チベット論理学の歴史については網羅的な研究であるが、概念の形成史については「正しい認識方法の定義」という一点を考察するのみである。Pascal氏も精力的に読解に取り組み、その成果が順次公表されているが、一人の研究者のカバーできる範囲はまだ小さいと言わなければならない。

 本研究課題の研究代表者福田は、まだこれらの古い写本が知られる前に、当時最も古いチベット論理学書であったサキャ・パンディタの『正しい認識手段についての論理の宝庫』の訳注(東洋文庫, 1989–1994)を手がけ、その研究の途上で後代の注釈書からチャパの論理学の存在論的な主張を再構成した(「チャパ・チューキセンゲとサキャ・パンディタにおける対象設定の理論」『東方学』78, pp.140–127, 1989)。また後代のゲルク派で用いられる論理学教科書を元に、様々な概念についての命題を抽出しコンコーダンスを作成した(Index to the Propositions of Tibetan Logic, Toyo Bunko, 2002)。さらに大谷大学所蔵のツァンナクパの『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』注などに基づいて、チベット仏教に広く見られる概念定義の方法について研究し、論理学のみならず、チベット仏教で広く用いられる概念定義の議論を分析する手法を提示した(「初期チベット論理学におけるmtshan mtshon gzhi gsumをめぐる議論について」『日本西蔵学会々報』49, pp.13–25, 2003)。その他、後代のチベット論理学における同一性指定の方法(「チベット論理学におけるldog paの意味と機能」『佛教学セミナー』80, pp.1–23, 2004)、他のものからの区別、普遍と特殊、矛盾と結合関係などについてのチベット独自の考え方についても研究を行った(研究業績13番)。

 大谷大学真宗総合研究所においては、研究代表者福田の監修のもと、上記ツァンナクパの『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』注の電子テキスト入力と詳細目次(科段)の整理などを、本研究課題の研究協力者崔境眞(東京大学大学院)とチベット人学者トゥプテン・ガワ氏(ゲルク派のセラ寺で博士号ゲシェー・ラランパ位を取得)が作成し公開している。この文献の解読を研究代表者福田および研究分担者石田、研究協力者崔境眞とで始めている。

 本研究課題では、初期チベット論理学の新出写本を元に電子テキストを作成し、そこから概念の用例および議論のトピックを比較検討することができるようなコンコーダンスを作成する。またツァンナクパの『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』注の中から、チベット独自の概念を論じている箇所を抜き出して、研究分担者・研究協力者とともに講読し、訳注を発表する。以上を元に、初期チベット論理学における論理学的諸概念の形成過程を解明することが本研究課題の目的である。

 具体的には、次のような目標を立てる。

  1. 『カダム派全集』中の主要な仏教論理学の著作を電子テキスト化する。
  2. 後代のゲルク派の論理学で使用される概念をもとにチベット論理学独特の概念を選び出し、それについての命題を収集し、概念のコンコーダンスを作成する。
  3. 論理的な問答のトピックを整理し、各文献間の対応表を作成する。
  4. 既にテキスト入力が済んでいるツァンナクパの『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』注から、上記、チベット独自の概念について議論をしている箇所を抜き出し、研究分担者石田と研究協力者崔境眞とで研究会を持ち、訳注をまとめる。
  5. 上記で作成した資料をもとに、チベット独自の個々の論理学的概念の形成過程について論文を執筆する。

 『カダム派全集』の中で論理学関係の著作は必ずしも多くはないとはいえ、それらは草書体で省略の多い文体で書かれているため、電子テキスト化するには多大の労力を要する。すでにいくつかの著作については個別に研究者が入力したデータもあり、本研究課題での入力テキストを提供することによって、相互に共有する方法を考えたい。ただし入力データそのものは、著作権の問題もあり、公開は難しい。そこでそれらを元に収集整理した概念の用例コンコーダンスや議論内容の対応表などを公開することとしたい。難解なテキストを読解するためには、これらの基礎資料をもとに同じテーマの議論を比較検討することによって理解を深めることが有効であり、本研究課題の成果が個々のテキストを読解する際の基礎資料となると考えられる。

 新出の難解な古文献を、たとえ限られた範囲であっても、十分に読解することは難しい。その難しさは、我々がその当時行われていた議論やその背景について無知であることが理由の一つである。このような古い議論についは、現代のチベット仏教の高僧もほとんど知識を有していない。そこで、まずはできる限り同種の用例を収集し、それらを比較することによって、それらの概念や議論の背景、かれらが共有していた概念の理解などを解明することが必要となる。研究代表者福田が「初期チベット論理学におけるmtshan mtshon gzhi gsumをめぐる議論について」で採用したのも、そのような研究方法である。個々の議論の正確な理解にこだわらずに、そこで前提とされている概念の用いられ方のみを調査することによって大きな成果をあげることができた。同様の手法を、新出の資料について組織的に行うことによって、これら難解な著作を解読する基礎を築くことができると思われる。